あの日、降りしきる冷たい雪の中、避難した建物の屋上に上がって見たものは、これが現実なのかと疑いたくなるような光景だった。
成す術もなく茫然と見つめる先は断片的に見える建物と破壊された物。
…そして津波の海。
ある若者が向こうを見つめながら私につぶやいた。
「俺さ、なんか、霊感みたいなのあるんっすよね。数日前に実は夢を見たんっすよ。それが…ものすごい数の遺体の夢だったんです。…このことだったんですよね……」 その時私は何を言ってるんだろう、この人は?と思いながら鼻にも止めなかった。だけど、その後に見聞きしたニュースは、その“夢ごと”を現実のものに映し変えてしまった。

目の当たりにした光景、しかし、それはまるで白黒の映画を見ているような錯覚に陥り、現実のものとは信じ難かった。教科書に載っていたっけ、関東大震災。あの教科書に載ってた写真。白黒。あれと同じ。難民。そうか、こんな風にしてこんな風に感じて歩くんだ。え?自分が?…。震災後、日を追うごとにいろいろなところから情報が入ってきた。私たちがいた施設は、前も後ろも横も……。いつも行っていた向かいのコンビニではアルバイトの高校生のお嬢さんが命を落とし、電気屋や洋服屋やショッピングセンター近辺は悲惨な有様だったらしい。

石巻の大川小学校の児童と教師が84名も犠牲になった。その教頭先生は数年前に塩釜市の小学校におられ、生徒指導関係で派遣されていた私はその下で仕事をさせていただいた。教頭先生が間違って購入した「石山」の訂正印を譲り受け、それが今では形見になってしまった。どんな時でも生徒の事を一番に考え、心配し、いつも大きな声で挨拶をした教頭先生はもう児童とともに天国へ召されてしまった。大切な児童を守り切れなかったことはどんなに無念だったことか。

数か月後のある時、カメラを持って記録を残そうとしたことがあった。だけど、あまりの惨状を目の当たりにした時、ついにカメラに手を伸ばすことはできなかった。後世に記録を残すことはカメラマンの仕事。一般人である私はそれを正しく描写することなど出来ないであろう。

買い出しの列に並んでいた時、雪は冷たく、3月なのになぜこんなに降る、と問いたくなるほど寒かった。最低限必要なものを買いたくて、でも店は開くかどうかも誰も知らず、ただひたすら人々は長い列を作っていた。一列に、静かに、時折知らぬ人と交わす言葉は、寒いですね、大丈夫ですか?店は開くんでしょうかね?誰一人騒ぐ人等なく、じっと寒さを堪えて体をすぼめている人たち。それを見ながら、これってもしかしたらすごい事ではないかと感じずにはいられなかった。もしこれがどこかの他国であったら、もうとうに店のガラスは破られ、略奪が始まっていたかもしれない。そう思うと、日本の人たちは穏やかで謙虚だなあ、とつくづく感心してしまった。

人間の強さ、優しさを感じられずにはいられないが、でも、なぜここまでの犠牲が必要だったのだろうか?楽しかった思い出、幸せだった家族との時。失ったものはあまりにも大きすぎて、彼らはどうやって心を癒すのだろう?せめて、小さな命だけでも返してもらえないものかと。それが出来ないのなら、せめて、残された人の心に少しでも希望が見えるようにして欲しいと…。

あれから早くも半年が過ぎ、少しずつ復興への道を歩んでいる。塩釜市内は何事もなかったように普通だが、中心部は今だ信号機が復旧していないところが何カ所もあって、瓦礫は撤去しても崩れ落ちそうになった家がまだ手つかずだったり、再建出来ずに閉店してしまった店舗もある。そう言えば、家へ入ってくるところの大通りの中央分離帯のライトも真っ暗で、まだ一本も点灯していない。

日々復興へ向けて歩む。でも、ふっと我に返ると、この自然の脅威に心を打ちひしがれてしまいそうになるのが本音かもしれない。
                      

                      平成23年9月11日



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その後…